昨今、バイオハザードを始め、ドーンオブザデッド、サバイバルオブザデッド、ウォーキングデッドなど

ゾンビをモチーフにした番組が世界を席巻しています


ぼくはこの背後にはなにがあるのだろうかと疑問におもいました





はたから見てもゾンビはお世辞にも人格者とは言えません



控え目に言ってもあまりにも気持ちが悪過ぎます

それにすごく頭がおかしいです


話したこともない人に噛み付くし、あとで謝ったりも絶対にしません


こんなゾンビを映画の華に添えたものが流行るなんて、

常識的にいえば正気の沙汰ではありません



これにはなにか裏があるはずです。



ゾンビものは大抵そうだとおもいますが、


製薬会社の陰謀もしくは薬品の不慮の流出により人間が突然変異でゾンビになり、


そのゾンビが人間にウイルスを感染させることにより半永久的に増殖し、

ゾンビに埋め尽くされた世界で、人間が逃げ惑う様が人間模様巧みに描かれています


表面的に見るとここには人間対ゾンビという対立構造が描かれていますが


ここでぼくが思ったのは、登場人物がゾンビに噛まれゾンビに変異してしまうことに、視聴者がある種の安心感を得ているのではないかと言うことです


これはどういうことかというと、


登場する人間達は、自分たちの力で自分たちの身を守り、自分たち自身の考えで道を切り開いていかねばなりません




生きるためには絶対的な個としての責任が伴います。


この個としての責任は非常に重いもので、この責任を持ち続けるということは非常に労力がいります。



ひとつひとつの選択は常に命懸けで、失敗しても誰もお尻をふいてはくれません





ここで反対のゾンビのサイドを想像してみてください。




ゾンビは無力の象徴で、目の前の欲(人間を食べる)だけに集中し



昼間っから割れないガラスをウーウーうなりながら叩き続けたり、なかなかエンジンのかからない車の近くで待機していれば"存在"として成り立ちます



そんな無力の状態を咎めるゾンビは一匹もいません



ゾンビとして生きていくのに責任はいりません


ただそこに居さえすればいいのです。
そして仲間を作ろうとすればいいのです。



その生き方に私たちは図らずとも誘惑されるのではないでしょうか


ゾンビに挑み(自分の責任で生きようとし)、噛まれ(断念し)、ゾンビになる(周りに責任を負ってもらい怠惰に生きる)というプロセスに無性の誘惑を感じているのではないでしょうか



もちろん最初は人間サイドのように、自分の意思で生きていくことを望んでいますが


それを持ち続けるのが辛い、そんな状況にあってゾンビに噛まれゾンビサイドに移るということは


責任のある生活から責任のない生活へ転換していく過程でが生々しく描かれたものであると思います



ゾンビに噛まれても決して死ねない、死ねない代わりに自分がゾンビになって



代わりに今度は自分が人間を襲うようになる


自分が果たせなかった責任を持った人間に生きていられると困るのです



それは相対的に自分の存在を一段低いところに置くことになってしまうから。



ゾンビが異常なまでに人間を喰い殺そうとするのは、自分だけでなく他人を引き摺り下ろそうとする弱い心の表れなのかもしれません



人間対ゾンビという対立構造は、僕から見ると責任対無責任の対立に見えます




そんなことは本当にどうでもいいんですがウォーキングデッドはほんとうに面白いです

こんなもの読んでゾンビのこと考えてる暇があったらウォーキングデッドを見た方がよっぽどいい生活をおくれるとおもいます